Lovelyz「人形」における少女の心の揺らぎ

少女三部作に続く新たな三部作を、「Destiny(私の地球)」をタイトル曲に据えたミニアルバム「A New Trilogy」で4月にカムバックしたLovelyz。

 

Lovelyz「Destiny」考察-少女が望む運命とは-|まっくのGood Days

 

これは当時、タイトル曲「Destiny(私の地球)」の歌詞とMVを自分なりに噛み砕き、「少女が望む運命とは何か」ということについて考察したものなのですが(ぜひ読んでいただきたいです)、このアルバムでもう一つ重要な役割を果たしていると思われる「人形」という曲があります。

 

「A New Trilogy」のプロローグフィルムにはBGMとして「人形」が使われています。加えてアルバムトラックのラストを飾っているのもこの曲。カムバックが待ちきれず手持ち無沙汰になった僕は、次に少女たちが見せてくれる姿への手がかりがこの曲に隠されているんじゃないかと期待してしまうのです。

 

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【カナルビ/歌詞/和訳】Lovelyz - 인형(人形)|K-pop 歌詞和訳

 

数ある楽曲の中でも異彩を放っているのがこの「人形」という曲。「아나요 잠도 못 드는 나를 知っていますか? 眠りにもつけない私を」そんな問いかけから始まるこの曲の世界は「난 그대의 인형 私はあなたの人形」という歌詞からも分かるように、意志を持たないはずである人形の視点からの語りによって描かれることになります。

 

「知っていますか?」という問いかけが幾度も繰り返され、それはともすれば自己完結的で皮肉を込めたものにも聞こえる、そんな人形の切実な言の葉。

 

알아요 나를 닮은 그 애를
知っています 私に似たその子を

알아요 그 앨 닮은 내 모습
知っています その子に似た私の姿

TV 속에 춤추는 그 앨
TVの中で踊るその子を

난 멈춰 선 채 바라만 보죠
私は立ち止まったままただ見つめています

 

終盤このように続きます。今までが人形の語りだったことを考えると、これも人形の言葉であるとするのが妥当かもしれませんが、「知っています」が「知っていますか?」に対する応答だとしたら?人形の孤独な問いかけに応えてくれる存在はいないのか、人形の想いは救われることはないのか、そう考えるとこの言葉を「持ち主=少女、の人形に対する応答」と捉えたくなってしまうのです。

 

眠りにつき、静かに夢を見ている持ち主を、部屋の隅で何も言わず静かに待っている人形。ではなぜその持ち主が人形の問いかけに応えてくれたのか?そもそも「夢を見ている」ことが暗示していることとは何なのか?

 

おそらくLovelyzの世界観における「夢を見る」という表現が意味するのは「過去への囚われ」や「その場に立ち止まること」だと思います。「Destiny(私の地球)」における夢世界として「For You」を解釈したこととも関係ありますが、この二曲にせよアルバム収録曲にせよ、過去に囚われていたり、なかなか一歩踏み出せない少女を描いていることが多い気がします。

 

きっと少女自身も、足場のない世界へと一歩踏み出さなければいけないことは分かってるんです。分かってはいるものの、過去への後悔、未来への不安から勇気が出ず、夢を見続けたまま立ち止まっている。あえて夢から覚めようとせず自分の思い通りになる世界の中に閉じこもっている。

 

そんな少女の「一歩踏み出した姿」を投影したものが「人形」であり、「TVの中で踊るその子」なのかと。似てるけれど何か違う、そんな自分に近いような遠いような存在。この時だけ少女と人形の視線が一致しているようなイメージです。少女は人形の視点に寄り添って客観的に「私」を見つめている。一歩踏み出した先にいる私(TVの中で踊るその子)を、夢の世界の中に立ち止まったままただ見つめているだけの「私」を。

 

話は逸れますが、心理臨床における遊戯療法や箱庭療法では人形が使用されることがあります。人形をどう扱うかによって患者の内的世界や心理状態を推し量るのです。つまりその時人形は人の心の象徴と考えられています。

 

人形という存在について考えるとき, 特徴的だと考えられるのが, 人形が人によって弄ばれるという点である。他と異なり人形は「私」という個人によって弄ばれ, それによって人形は「私」であって「私」でないという二重性を持った中間的な存在となると考えられる。そして, そうした中間的な存在として, かつて人形が人の思いや苦しみを託すヒトガタとして用いられたように, 現代の心理臨床の場面においても, そうした中間的な存在として「私」の想いや生きる苦しみを代わりに受ける存在として, 人形は存在していると考えられる。(菱田 2012 「人形の象徴性と心理臨床における人形のあり方について」)

 

やはり人形が独立した意志を持っていると考えるよりも、持ち主の想いが憑依した「私」であって「私」でない存在とした方が、少女が生きる「夢と現実の境界」という世界観にも合うのではないでしょうか。

 

話を戻してまとめに。人形(一歩踏み出した私)からの問いかけに応じた少女は、この場所にいつまでも留まっているわけにはいかないことを知っています。しかし待っているだけでは当然何も始まりません。「처음 봤던 그때 그대로 初めて会ったあの時あのままで 난 그댈 향해 웃고 있는데 私はあなたに向かって笑っているのに」人形は少女に可能性を開きつつも「조용히 그대를 기다려 静かにあなたを待ってる」だけだからです。

 

いつか少女が葛藤、不安、苦悩を乗り越え一歩踏み出す時が来ます。安心にすがり動き出そうとしなかった少女は、この世界のラストで人形の問いかけに反応し、目覚めの様相を呈します。もしかすると今は「0」と「1」の狭間で揺れている段階なのかもしれません。

 

少女はドアの前に座り、人形は反対側の窓のそばに置いてある光景が浮かびます。一歩踏み出し人形へと近づいていく過程で少女はどのような景色を見せてくれるのか、どこに向かうのか。夢⇔現実、内⇔外のような二項対立の図式に捉われない答えを提供してくれるんじゃないかと期待せずにはいられません。もしその瞬間に立ち会えればとても嬉しいですし誇らしいです。

 

しかし安定を捨ててまで少女は自分の中の弱さと向き合う必要があるのでしょうか?そんな疑問に今はまだジャンクの人形がこう答えるかもしれません。

 

「だって生きることは戦うことでしょ?」(「ローゼンメイデン」より)