自分にとっての「K-POP」を見直してみた

激動の2016年も残すところあと10日である。少し前のことになるがミヤネ屋で今年の漢字が発表される瞬間をコタツに包まれながら見ていた。正直「金」が霞むくらいにはヤバイ出来事が起きていて、今までの足場が崩壊しつつあった年だったと思うのだが、きっとその不安を見てみぬふりをした結果の「金」なのだろう。

 

さて年末ということでやはり流行っているのは2016年の振り返りだ。自分も流行りに乗っかって「今年のK‐POPソングベスト30」の発表でもしようかと思ったのだが、巷で発表されているランキングと大した差はないので割愛することにする。そんなことよりも重要なのはベスト「30」という点だ。特に何も考えず30と書いたがそれだけの数の曲がさらっと浮かんでくるほど今年はK‐POP好きとしての飛躍の年だったということである。

 

 

ところで昨今のK‐POP界は供給過多すぎではないか?と思ってしまうことが少なくない。これは主に雑食と呼ばれる人々にとっては深刻な問題であると考える。一日かけても未視聴の動画を片付けることができないなんてざらにあるし、仮に見終わっても翌日には新たな動画がひょこっとYouTubeのトップ画面に顔を出す。消化不良の無限ループだ。自分も今はてなブログを書きながら別ウィンドウを開きながら赤ほっぺちゃんのライブ映像を消化しながらラブリーズの単コンの妄想をしている。歩くマルチプログラミングである。

 

果たして、このような現状を考慮してなお胸を張って「2016年はK‐POPを楽しんだ年だ」と言えるのだろうか。そこで今回は「K‐POP」というものを改めて見つめ直し、新しい関わり方を模索してみようと思う。そのためにはまず自分のK‐POP遍歴を振り返ってみることが理解の一助となるだろう。

 

K‐POP童貞期(誕生~中学校)

そもそもK‐POPという言葉を知らない時期である。BoA東方神起を見ても韓国の人という認識でしかない。いや、BoAは日本人だと思ってた。中3あたりでKARAや少女時代が登場する。ここが転機。

 

K‐POP=○○期(高1~高2)

今は雑食の人も基本的にこの時期を経た人がほとんどであろう。2010~2011年の爆発的K‐POPブームが今となっては懐かしい。僕の場合はK‐POP=KARAであったが、少女時代、東方神起、BigBangなど人によりけりである。他のグループの曲はかろうじて数曲知っている程度で、音楽プレーヤーには韓国ではKARAしか入っていない。ところでツイッターでは最近でもこのような「○○オンリー」な人をよく見かけるが果たしてそうなのか疑わしい人も多い。本物を見抜く力が試される瞬間である。

 

あれ?K‐POPってよくない?期(高3)

かろうじて知ってる数曲をたよりに不用意に足を踏み入れてしまう時期。オレンジキャラメルに引くほどはまっていた。SecretやRainbowにも良曲が多いことを知り、徐々にYouTubeの住民と化していく。動画を「見なければいけない」という義務感を感じ始めたのはこの頃からだろうか。ブログを始めて情報を積極的に仕入れ始めた影響も大きいように思う。

 

K‐POP雑食否定期(大1~大2)

ここでいう「否定」というのが実に厄介で、「多くの曲を聴くし、多くのグループが好きだけど、K‐POPならなんでも食い散らかす雑食と思われると底が浅いとバカにされそうだから自分はただ好きな音楽を聴いているだけだと雑食であることを否定して強がる」期であることを意味している。世間的には言ってしまえばただの雑食なのである。それもこじらせにこじらせた雑食である。当時は第二次K‐POPブームとひそかに語られていたが、その主役であったApinkとAOAにまんまとはまりその後数ヶ月であっさり熱が冷めて撤退する。さながらカラスのついばみだ。

 

そんな自分の主張の核は「K‐POPが好きなのではない。好きになった音楽がたまたまK‐POPだっただけだ」である。「巨乳が好きなのではない。好きになった女の子がたまたま巨乳だっただけだ」並にペラペラの説得力だ。「K‐POPや韓国という記号にはしゃいでるだけのやつらとは違う」と決め込んでいたが今となってはその記号の魔力は認めざるを得ない。K‐POPを好きな人なら多かれ少なかれその価値観は身体に染み付いているのだ。

 

K‐POP悟り期(大3)

もうK‐POPとか雑食とか考えるだけ無駄・・・良いもんは良い・・・ただそれだけのこと・・・期。思考の断捨離を行い物事はできるだけシンプルに考えた方がいいと悟るが、その代わりに世界観考察厨としての自分が目を覚ます。今までは触れてこなかったボーイズグループにも手を出しエクソかわいいとか言い出す。 当然カバーするグループの範囲は過去最大となり、毎日いかに効率よく動画を消化するかに命をかける。時間との闘いである。あ、赤ほっぺちゃんのライブ動画終わった。

 

原初への欲求(現在)

このように自分のK‐POP遍歴を見てみると、高2と高3の間で二分することができるだろう。高2以前は純粋に楽しさだけを享受していたが、高3以降は義務感、強がり、時間との闘いなど、常になんらかの負の側面を抱きながらK‐POPに関わってきた。特に今危機感を感じているのは「消費への強迫観念」だ。MVや音楽番組だけでなくVやファンカムなど見なければならないと感じる動画があまりにも多い。動画だけでなく音源や記事、写真などもチェックしなければならない義務感を生じさせる。アイドルを追いかけているはずが、そのアイドルが生み出すものに追いかけられるという皮肉の構造がここにできあがる。

 

そんな今、自分の中にあるのは原初への回帰欲求である。テレビで踊るKARAに目を輝かせていた高1の夏。そんな純粋な気持ちに返りたい。当時は一つの動画を何度も繰り返し味わっていた。需要と供給のバランスが取れていたのだ。今は膨れ上がる供給に必死に需要が追従しているとでも言えばいいだろうか。健全なバランスに健全な精神は宿る。自分は需要が供給に常に少しだけ勝っている状態が最も理想的だと考えている。様々な動画を見てその度にいろいろと考察して言葉を慎重にチョイスして感想をまとめる。それはそれでもちろん楽しいのだが、テレビの向こうの女の子を何も考えずただただかわいいだけ言っていたあの単純さも恋しいのだ。じゃあそうすればいいじゃないかと言うのは簡単だ。しかしインターネットの普及により、音楽をテレビで受動的に聴くのではなく、YouTubeツイッターで能動的に聴くことが当たり前の時代となった今ではもうそのようなスタイルに戻ることは非常に難しい。戻れたとしても今の「雑食」の価値観ではそのスタイルに満足できないだろう。結局答えは出ない。これからもまだまだ模索は続いていく。

 

昨今のK‐POP界は面白さの宝庫だ。興味を惹かれるコンテンツに溢れている。しかしあまりにも選択肢が多くなってしまうことは本当に幸せなのだろうか。自分はただ、得体の知れない何かに追われているような感覚がいつも拭えないのだ。そんなことを考えながら今日も後で見るリストに入れた動画を消化していく。あ、シャイニーのライブ映像明日見たいからリスト入れとこ。